フイリピンの英語留学・ゴルフ・慰霊の旅

フイリピンで英語留学・ゴルフ・慰霊などでセブ・バギオ・ダバオなどに滞在した時の記録です
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サンファビアン慰霊祭

 2006年2月10日、パンガシナン州サンファビアンのビーチにある慰霊碑の前で慰霊祭が行われました。

 鹿児島歩兵第71連隊の畠中第3大隊の将兵500余名が昭和20年1月18日夜、サンファビアンの米軍陣地に切り込み戦死されました。生き残りの鹿児島の戦友会の方々がその近くの海岸の砂浜に慰霊碑を建立されました。

 地元に住む日本人とバギオ日本人会と日系人会の方々が慰霊祭を企画し実行されました。本来、日本政府がやることですが、殆どの慰霊祭は、戦友会や地元日本人会の鎮魂の気持ちによって行われています。

 慰霊祭は、慰霊碑の両脇に日本国旗とフィリピン国旗を配し約200名の参列のもと、賛美歌とフィリピン国歌、日本国歌の斉唱、バランガイ・キャプテンの挨拶、日本人僧侶の読経の順序で厳かに行われました。

 後で聞いた話ですが、日系人の2人の霊能力のある方が、軍旗を掲げた日本軍兵士が倒れる姿、それを再び掲げる兵士や大勢の日本軍将兵の姿を上空に見たそうです。

 この慰霊祭が少しでも英霊の方々のお慰めに少しでもお役に立ったのでしょうか。


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            歩兵第71連隊史

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            歩兵第71連隊史
          
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             慰霊祭読経

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畠中第三大隊の斬り込み

 1月9日

 敵艦隊は6日以来、昼夜の別なく、盛んに我が海岸付近に在る陣地に猛烈な艦砲射撃を実施していたのであるが、1月9日午前9時30分、艦砲射撃、飛行機による空からの爆撃、及び上陸正面一帯を覆う煙幕の擁護下、約250隻の上陸用舟艇により急遽リンガエン付近よりサンファビアン北方に亘る地区に上陸を開始したが、我が軍は一門の砲、一機の飛行機も之を妨害するものも無く、全く展覧演習を観る観があった。

1月16日 

畠中・第三大隊が、ポソルビオを出発したのは、1月16日の日没のあとであった。
出発に当たり、大隊本部行李班、大隊砲中隊、機関銃中隊を残留させた。これは、斬り込み戦闘に不適当なためであった。また、大隊の三個中隊から各50名を残し、残留隊の護衛とした。

 斬り込みに行くのは,約550名であった。その殆どが鹿児島出身であった。

1月17日
 
薄暮、米軍の戦線移動が静まってから潜行を開始した。竹やぶ、ヤシ、バナナ林のジャングルを潜り抜け、夜道を探り、水田湿地帯を通過して基地に近い部落にまで進出した時はすでに夜明けとなっていた。

 そこで部隊は、川岸まで移動し岸の葦の繁みに潜伏することにした。

1月18日

薄暮を待っていよいよ斬り込み突入の出発となった。基地まではまだ4キロある。500余名の敵中での隠密行動による潜入はまことに至難の業といえる。

 基地は近くなった。畠中隊長は各隊の指揮班長を集めて、最後の指示と攻撃目標を示し突入を命じた。

畠中大隊長は、大隊副官・土屋正徳少尉、第十一中隊長・今久留主正芳中尉らと共に進んで行くと、橋のきわにトラックがとまっていた。そこから英語で問いかける声が聞こえた。今久留主中隊長は英語が出来たので、すぐに英語で答えた。

 その途端にトラックの前照燈が輝き,畠中大隊長らの一団の姿を照らした。トラックの上から機関銃、自動小銃が火をふいた。たちまちのうちに畠中大隊長らはなぎ倒された。

 その後の各隊の将兵は、薩州人の意気を表しそれぞれに目標を求めて攻撃した。燃料の入ったドラム缶が山ずみになっていた。一人の兵が十字鍬を打ち込んで穴を開けて、流れ出る燃料に火をつけた。爆発が起こり火炎が燃え上がった。

 あたりは火炎に照らされて明るくなった。このころには、アメリカ軍は照明弾を打ち上げていた。日本兵の姿は
鮮やかに照らし出された。銃弾の火線は四方から集中した。

 攻撃の終わった後、生き残った者は、488高地の連隊陣地に帰ることにした。数日の後、488高地にたどり着いた者は50名前後であった。

 
 以下の文章は、歩兵代71連隊・戦友会会長・鈴春夫さんの鎮魂集にある慰霊祭へのお礼の言葉です。
 
 この戦場で没した将兵は、中国大陸北満シベリアから2ヶ月もかかってマニラに着き、南へ歩き、また北へ移動、更に歩け歩け北へ250kmのところで米軍6万人以上上陸した。その拠点に「体当たり突入せよ」と言う命令が待っていた。

 靴の紐を解く暇もなく、東西南北もわからぬまま、夜半に突入(1月18日夜)。


一夜にして第三大隊畠中少佐以下550名は全滅しました。マニラ上陸から1ヶ月もたたぬうちに、バナナの1本、マンゴーも口にすることなく戦場の地獄に消え去りました。



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            歩兵第71連隊史
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            歩兵第71連隊史
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            歩兵第71連隊史

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持久戦の作戦が水際作戦に変更された経緯

 第14方面軍は26万2千名に及ぶ大軍であった。しかし、武器、弾薬、食料が極度に不足だった。 

 しかし、大本営は、米軍がルソン島に来攻するのは昭和20年の2月か3月と見ていた。そのため陣地構築など全てが準備不足だった。

 山下司令官は、当初、丘陵地帯に陣地を散在させ、そこからさらに奥の高地に主陣地を置いた。これは水際防御を避けた考えであった。
 
 昭和20年1月2日。
旭・第23師団長の命令が、歩兵第71連隊の二木連隊長に伝えられた。
それによると(命令1~5は省略)

6.第71連隊は、第64連隊の左翼に連繋してビナロナン東北東高地に陣地を占領し状況により随時出撃の態勢を準備すべし。

7.兵団はカバルアン丘に前進陣地を占領し、(中略)、第71連隊の1個大隊と野砲第17連隊の1個中隊を直轄とす。又、工兵第23連隊は1個中隊を以ってカバルアン丘に速やかに堅固な陣地を築くべし。

1月3日。 
 第二大隊長の大盛大尉は、カバルアン丘の実地を調べに行った。師団の情報参謀・井上至文少佐が指導のため同行した。一行のトラックは、ウルダネータから西に入った。長く続く森が見えて来た。井上参謀は注目しながら言った。

「あすこらしいな」大盛大尉は信じられないでいた。森の中に入ると木立は切れて広い広場に出た。
その先にもう一つ森があった。しかし丘らしい形はどこにもなかった。

 土地の開けた所で車を止めて井上参謀はトラックから降りて、あたりを見回して言った。
「ここがカバルアン丘だ。少し高くなっている」

 大盛大尉は、返す言葉がなかった。高いと言っても畑の土が盛り上がっている程度である。正しくは、カバルアンの林と呼ぶ程度のところだった。

 カバルアン丘は、井上参謀の見た地図には確かにあった。その地図は、日本陸軍の陸地調査部で作った「中部呂宋兵要地誌図」である。25万分の1相当の地図で、地名の大部分は日本語に書き換えてある。

 このような地図は、駐留中の部隊から人員を出して測量、調査に協力して作った。また、明治大正期から、日本軍人が商社員になり済ますし、或いは民間人が密偵となって兵要地誌を調べた。

1月5日。

 武藤参謀長は、山下大将と別行動をとってバギオに向かう途中、シソンの旭師団司令部に行った。師団の高津参謀が状況を報告すると、武藤参謀長は、声を激しくして言った。

 「旭兵団の陣地の左翼方面は後退しすぎている。マナオアグ、カバルアン丘の前進陣地の線を本陣地とすべきである。自分がバギオに到着次第、山下軍司令官に申し上げて正式に指示してもらうが、今から位置を変更して欲しい」武藤参謀長はきびしい表情で、司令部を去ってバギオに向かった。

 西山師団長も高津参謀も驚いた。武藤参謀長の要求は重大なものがあった。師団の左翼方面が後退しているという。左翼は、歩兵第71連隊の担当である。その位置は、71連隊の本部のあるアルビナロナンの東北方高地である。
 
 水際防御を避けて、山麓地帯の高地を利用して抵抗を続ける持久作戦は,第14方面軍の構想であり、西山氏団長はそれを実行に移そうとした。

 武藤参謀長は、師団の陣地計画に反対し、「ビンダイ、マナオアグ、カバルアン丘の前進陣地を本陣地とする」ことを要求した。

注:「前進陣地には、一定の目的を果たすまでの限度がある。主陣地は、敵の攻撃を破砕するまで戦わねばならない。」

 武藤参謀長は人一倍強気であったことが、旭兵団の高地抵抗陣地を水際防御型に変えた。こうして、兵要地誌図から急に浮かび上がったカバルアン丘は、まず、前進陣地となり、たちまち、栄光の主陣地となった。

 この時、大盛支隊は、すでにカバルアン丘に到着していた。支隊長・大盛大尉は前進陣地としての命令を受けていた。それが主陣地に変更になったことについて、直前の旭兵団はなんの伝達もしなかった。
 大盛支隊は、このようにして全員戦死の役割を与えられた。

 之より先に71連隊の大盛支隊をカバルアンに配置する変更があったのは、12月28日、西村参謀副長が旭兵団に対し、リンガエン湾西端のラプラドールに久保田支隊を派遣するように指示した。
 
 久保田支隊を西方に出すと、盟、旭両兵団の展開する東方の沿岸高地の陣地との間が、無防備の空白地帯となる。久保田支隊を孤立させないために、中間に前進基地を置く必要になったという。

 ともあれ、旭兵団と71連隊にとって、カバルアン丘の地名は、にわかに重大なものとして浮かび上がった。
地図には記されていないカバルアン丘に行くのは、大盛大尉の指揮する第2大隊と決まった。支隊としての編成も決まった。合計推定940名であった。

マニラ1月3日。

畠中少佐の指揮する第71連隊の第3大隊に「原隊に復帰せよ」の命令が伝えられた。

1月6日。
畠中少佐の指揮する第3大隊は、マニラを出発して国道3号線を北に向かった。
大隊の下士官、兵は武器、弾薬、食料などを携行したので、10kgを超える軍装の重みに肩をはらし足を痛めた。畠中隊員の全員、900名は歯を食いしばる強行軍を続けた。

1月8日。
工兵23連隊の第2中隊長、落合秀正中尉は、トラックに乗ってカバルアンの丘に向かった。落合中隊長は、前日水野連隊長から「カバルアン丘の前進陣地」と指示されている。
カバルアンの林の奥まった所に、支隊本部があった。大盛大尉は陸士54期で、落合中隊長の2期先輩ということから、初対面の固さがなかった。
 
 「工兵が1個中隊も来ようとは思ってもいなかったぞ」
大盛支隊長は、嬉しそうに笑った。
落合中隊長は「丘というのはどこですか」と尋ねた。
大盛支隊長は面白くないという顔で答えた。
「ここが丘だよ。他に高い所などありゃせんよ」

 大盛支隊長は、余裕のある態度で言った。
「戦車がどこからでも入って来られるようなところだ。しかし、敵は明日にも上陸するだろうから、とにかく粗末な陣地でもなんでも、3日間で作ってもらいたい」
 落合中隊長は、準備のため、すぐにボボナンに引き返した。

この記事は、高木俊朗著「ルソン戦記」から抜粋して書きました。
               
                                続く


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  「ルソン戦記」高木俊朗著。文芸春秋社。1985年。1800円。

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リンガエン湾の歩兵第71連隊の布陣

 2006年2月10日に私たちは、サンファビアンの慰霊碑の前で慰霊祭を行ったのですが、その記事は後で書きます。

 その前に私は、そのパンガシナン州で行われた戦闘がどのように展開され結果はどうなったか知らなかったので後日、日本に帰った時に調べたことを基にして概略をここに述べてみたいと思います。
 
 昭和20年1月9日、リンガエン湾に米軍6万人余が上陸しました。それに対する日本軍は、第23師団(通称:旭兵団)と独立混成第58旅団(通称:盟兵団)が防御の布陣を布いていました。その布陣にしてもマニラから部隊を呼び集めたりして混乱の中で十分ではありませんでした。米軍の来襲が予想より速かったためです。

 第23師団の鹿児島歩兵第71連隊は、連隊本部と第1大隊がマニラ街道の東のビナロナン東北488高地に布陣し、第3大隊(大隊長:畠中少佐)550名がサンファビアンに近い場所に布陣、第2大隊(大隊長:大盛大尉)940名は、それより南のカバルアン丘に布陣しました。

 第14方面軍、山下司令官は、本部をバギオに置いていました。そして初めは持久戦のつもりでしたが作戦の混乱により司令官は命令を変更して1月18日夜に第3大隊に夜襲切り込みを命じたのでした。


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  リンガエン湾付近歩兵第71連隊布陣
図中、Ⅰ/71i=71連隊第1大隊。Ⅱ/71i=71連隊第二大隊。Ⅲ/71i=71連隊第3大隊。72i=72連隊。
   64i=64連隊。


フィリピン全土地図  (ルソン島北部の
バギオを中心にして拡大して見て下さい。


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リンガエン湾のサンファビアンへ

 2006年2月、友人の車で日本から旅行に来たK氏と私の3人でパンガシナン州のサンファビアンに向かいました。サンファビアンの海岸の砂浜に慰霊碑がありました。

 昭和20年1月9日マッカーサー司令官の率いる米陸軍の大軍がこのリンガエン湾のサンファビアンの海岸に上陸して日本軍との間で激戦があり、戦死した日本軍第23師団の鹿児島歩兵第71連隊の将兵の慰霊碑が建立されました。

 我々は、立派な慰霊碑に向かって合掌しました。その隣に戦死した米軍の将兵の慰霊碑もありました。

 慰霊碑のすぐそばに、SAN FABIAN PTA BEACH RESORT がありました。我々は、今日、そこに宿泊することになりました。そこは、前マルコス大統領の別荘だったそうです。

 宿泊施設は、1棟ずつのハウスになっていて1泊当時で1,700ペソでした。勿論、普通のホテルの部屋もあり、プールやレストランなどがありました。

 夕方に砂浜に出て見たリンガエン湾に沈む夕日が綺麗でした。

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          歩兵第71連隊史
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          歩兵第71連隊史

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リンガエン湾の夕日

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プロフィール

mandaragan

Author:mandaragan
リタイアしてから、フイリピンで英語留学、ゴルフ、観光旅行などしながら長期、短期滞在をしてきました。
現地情報も含めて体験記を書きます。

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