フイリピンの英語留学・ゴルフ・慰霊の旅

フイリピンで英語留学・ゴルフ・慰霊などでセブ・バギオ・ダバオなどに滞在した時の記録です
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バギオ市内の英霊追悼碑

 バギオ市内の中心部に慰霊碑があります。モニュメントもあります。その場所は管理人が常駐しています。

以前には歩兵第71連隊の戦友会の人々が来て慰霊を行いました。今は、戦友会の人たちは高齢になり数人のみになり来れなくなりました。

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       バギオ市内の英霊追悼碑
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       追悼碑での慰霊
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       バギオライオンズクラブの記念碑
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       尾崎士郎の記念碑
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       歩兵第71連隊史:戦友会の慰霊巡拝
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       歩兵第71連隊史:戦友会の慰霊巡拝

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キャンプ3(K3)の慰霊祭


 2006年4月22日、ベンゲット道のキャンプ3での慰霊祭がバギオ日本人会・バギオ日系人会の主催で行なわれました。
 
 ベンゲット道に布陣して戦死された1300余名の英霊の鎮魂のために晴天のもと行なわれました。
この碑に鎮魂する歩兵第71連隊将兵 約650名。配属部隊将兵 約680名です。

 ベンゲット道、曲がりくねった約40キロ(キャンプ1.2.3.4)を死守防衛60日、5~10名のグループごとに米軍戦車の付随歩兵目指して斬込突撃ー30m進んで50m退く戦法。プエド川には死体がころんだまま。
地獄の川(三途の川)と呼んでいました。
        

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      ベンゲット道

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       K3 慰霊碑

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           慰霊碑の隣の民家
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           読経

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           読経

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        日本人会・日系人会
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        日本人会・日系人会

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        ベンゲット道
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       歩兵第71連隊史より。

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ベンゲット道の落合工兵中隊の戦い No.3

 3月25日
 
 アメリカ兵約30名がが洞窟陣地の近くまでやって来た。新井砲兵隊の持っている92式重機関銃が掃射し、アメリカ軍は自動小銃で撃ちあった。白兵戦になれば全滅する。しかし、アメリカ軍兵の足音は急速に遠ざかった。
アメリカ軍は午後4時半を過ぎると戦闘をやめて帰っていくのであった。

 夜になって落合隊の本隊である工兵第23連隊の主力がキャンプ3の西方の山の上に出てきた。このため落合隊は本隊に復帰することになった。

 これが落合隊を死の危機から救った。落合隊はキャンプ4の岩穴の陣地に入った。

 キャンプ4の岩穴の中では、落合中隊の生き残りの20名ばかりが、病苦に耐え負傷の苦痛と戦っていた。しかし、それ以上に耐え難かったのは空腹であった。

 4月11日 

ナギリアン道を進んだアメリカ軍が総攻撃を開始した。この方面からバギオに突入する計画だから、戦車、火砲を揃え、航空部隊が参加する大規模な作戦であった。


 4月16日 
 水野工兵連隊長が突然の撤退をした時から、ベンゲット道の日本軍が崩れた。水野連隊長はあわただしくバギオ方面に去った。

 4月18日
 
 歩第71連隊の林連隊長は撤退した。夕方になるのを待って第一大隊の本部と第一中隊は陣地を撤収してキャンプ4に向かった。

 4月24日 

 小川大隊長より命令が示達してあった。
「落合中隊はキャンプ4からバギオに至るベンゲット道の橋梁を全部爆破したる後、アンタモックを経由、アンブクラオに集結すべし。」
 アンブクラオは山下道の中間にある小さな村である。

 アメリカ軍は4月26日から27日にかけてバギオ市の要所を抑え事実上占領した。ベンゲット道からバギオに入るのが困難と見た時、早急に進撃の重点をナギリアン道方面に置き換えた。

 5月3日
 
 落合中隊長以下約10名が幾つかの山を超えて山下道に達した。しばらく行くと道路脇に工兵連隊本部の将兵が出迎えに来ていた。水野連隊長も来ていた。落合中隊長は撤退の経過を報告した。

 フィリピンの日本軍の戦死者の数はおびただしい。厚生省の計算では、約47万6千名である。
フィリピン全域で戦闘に参加した日本の陸海軍の人員は約64万人である。最も戦死者の多かったのはルソン島とその近海であリ、その数は約30万名でレイテ島での陸上死は約8万名であった。

ルソン戦記より。

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ベンゲット道の落合工兵中隊の戦い NO.2

 落合工兵中隊は、歩71連隊に配属され、キャンプ3に行くことになった。中隊の全員は百名前後で、その中から病兵を除いて戦闘に耐える者だけを選ぶと3,40名しかいなかった。それほど多くの将兵が病気に冒されていた。その頃のルソン島の日本軍の全部に共通した状態であった。

 食料が不足し、薬も不足し特にマラリアに罹る者が多かったが薬がなかった。落合中隊長も実際には患者の一人であった。衛生兵の検温では39度5分の熱があった。

 3月14日、キャンプ3の川岸の大きな岩石の下の壕に指揮班を置いて大きな暗渠に陣地を決めた。落合中隊長は、この時若干21歳であった。

 落合中隊の本部の洞窟がアメリカ軍の砲撃の目標になったのは、そこに立てこもってから3日目の早朝であった。こうして落合工兵隊のベンゲット道の戦闘が始まった。

 3月18日夜、プエド川支流にかかる仮設木橋を爆破した。3月24日、アメリカ軍が偵察に来た。洞窟陣地を中心に立てこもっている落合隊本部は総勢20名たらずで、このほかにプエド川の岩場に稲泉隊の10名前後がいた。

 この時、アメリカ軍は第33師団の歩兵136連隊を基幹としてキャンプ2からキャンプ3にかけて火砲、戦車を配置し、一挙にキャンプ4まで突進しようとしていた。その兵数は約2千名であったが武器弾薬の数量は夥しく、補給、食料は豊富に用意してあった。何よりも決定的な戦力差となったのは、飛行機であった。

 アメリカ空軍はフィリピン全土を制圧していたが、日本軍は一機の飛行機も飛べなくなっていた。

 ベンゲット戦線の日本軍は、第71連隊と工兵第23連隊その他の部隊であったが兵数は全部合わせても六百名たらず、それも飢えとマラリアのため歩くのに杖をつくほど衰弱していた。

 伝令の下士官が歩71の本部から洞窟陣地に命令を持ってきた。「昨日の斬り込みは実行されていない。その命令を本日直ちに実行せよ」
 
 之より以前に連隊長は、二木連隊長から、林連隊長に変わっていた。落合中隊長は、心の底から怒りの噴き上がるのを感じた。落合中隊長は激しい語調で重大な内容に触れていった。
 
 「連隊長は最前線の状況を知らないから、こんな命令を出していられるんだ。連隊長は一度でもこのキャンプ3を見に来たことがあるか。・・・・・・・・」
 
 落合中隊長はこのようなことを伝令に向かって怒鳴り続けた。ともあれ中隊長は、抗命の本心を部下の前に明らかにした。

 「ルソン戦記」 ベンゲット道 高木俊朗著。文芸春秋社。img335_convert_20120111141001.jpg
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ベンゲット(ケノン)道戦記:落合工兵中隊の戦い

 旭・第23師団は488高地、カウリンガン山で戦闘を続けた。隷下の歩兵第71連隊は畠中大隊の切り込み、カバルアン丘の大盛大隊が全滅したあと、残る第一大隊も500名を488高地で失った。

 盟兵団、歩64連隊も歩71連隊と同じような打撃を受けた。
2月18日、旭兵団は488高地から撤退し、その東北方のベンゲット(ケノン)道に陣地を移し、アメリカ軍のバギオ進攻を阻止しようとした。落合中尉所属の工兵23連隊もこれにともなって後退し、バギオ郊外のロアカンに集結した。

 この頃、日本軍各部隊の食料と弾薬の不足は益々深刻の度を加えてきた。3月11日、工兵連隊本部の副官、網屋太尉に「キャンプ3」の増援部隊として行ってくれと言われる。
 
 ベンゲット道を下って行くと、前方に橋が見えた。プエド川とベンゲット道の交差している所である。
連隊本部に出頭したら前夜二木連隊長と交代した林安男大佐に会った。

 自慢の演説がやたら長くて太っている問題の人物だった。キャンプ3の橋の後方(バギオ寄り)で師団参謀の井上至文中佐と陣地を探し、大きな岩石の壕と道路の下の川岸の暗渠に陣地を決めた。

 そして井上参謀が師団長の意図を代わって伝えた。
「落合中隊長は、現任務を誇りとして、現位置を死守し、ベンゲット道の花と散れ」

 落合中隊長も割り切れない思いだった。ベンゲット道が重要なことはわかっている。山下方面軍司令部があるバギオへの関門である。

 それ故にアメリカ軍もここに攻撃の重点を置くはずである。それに対しわずか、一握りの工兵と砲兵を配置するだけで良いのか。重要な十五榴弾砲を道路上に置くような無謀な使い方を何故するのか。

 このころの日本軍の全部がそのようにして動かされていた。特に軍の中枢は、中佐、少佐の若手参謀の独断専行で動かされた、といってもよかった。

 士官学校の教育でも要領よく戦い最小の損害で最大の戦果を収めることを基本として教えた。

 ところがフィリピンでの捷一号作戦の頃には、大本営も前線の指揮官や参謀も、最初から将兵を死なせる事を考えて作戦を計画した。

 カバルアン丘で大盛大隊を全滅させたのも、サンファビアンで畠中大隊に斬り込みをさせたのもそれである。

 吉田一等兵も身をもって逃れた金沢大隊の全滅をはじめ、盟兵団各大隊の壊滅もそのためである。ことに、大盛大隊長に対し、直接に死守を要求したのは、当の井上参謀である。

 これは、惨敗続きの日本の軍部の、絶望と狂気のための作戦であろう。

「ルソン戦記」ベンゲット道。高木俊朗著より。


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     キャンプ3陣地配置図:歩兵第71連隊史



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  バギオーベンゲット道要図(ルソン戦記・高木俊朗著)



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Author:mandaragan
リタイアしてから、フイリピンで英語留学、ゴルフ、観光旅行などしながら長期、短期滞在をしてきました。
現地情報も含めて体験記を書きます。

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