フイリピンの英語留学・ゴルフ・慰霊の旅

フイリピンで英語留学・ゴルフ・慰霊などでセブ・バギオ・ダバオなどに滞在した時の記録です
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持久戦の作戦が水際作戦に変更された経緯

 第14方面軍は26万2千名に及ぶ大軍であった。しかし、武器、弾薬、食料が極度に不足だった。 

 しかし、大本営は、米軍がルソン島に来攻するのは昭和20年の2月か3月と見ていた。そのため陣地構築など全てが準備不足だった。

 山下司令官は、当初、丘陵地帯に陣地を散在させ、そこからさらに奥の高地に主陣地を置いた。これは水際防御を避けた考えであった。
 
 昭和20年1月2日。
旭・第23師団長の命令が、歩兵第71連隊の二木連隊長に伝えられた。
それによると(命令1~5は省略)

6.第71連隊は、第64連隊の左翼に連繋してビナロナン東北東高地に陣地を占領し状況により随時出撃の態勢を準備すべし。

7.兵団はカバルアン丘に前進陣地を占領し、(中略)、第71連隊の1個大隊と野砲第17連隊の1個中隊を直轄とす。又、工兵第23連隊は1個中隊を以ってカバルアン丘に速やかに堅固な陣地を築くべし。

1月3日。 
 第二大隊長の大盛大尉は、カバルアン丘の実地を調べに行った。師団の情報参謀・井上至文少佐が指導のため同行した。一行のトラックは、ウルダネータから西に入った。長く続く森が見えて来た。井上参謀は注目しながら言った。

「あすこらしいな」大盛大尉は信じられないでいた。森の中に入ると木立は切れて広い広場に出た。
その先にもう一つ森があった。しかし丘らしい形はどこにもなかった。

 土地の開けた所で車を止めて井上参謀はトラックから降りて、あたりを見回して言った。
「ここがカバルアン丘だ。少し高くなっている」

 大盛大尉は、返す言葉がなかった。高いと言っても畑の土が盛り上がっている程度である。正しくは、カバルアンの林と呼ぶ程度のところだった。

 カバルアン丘は、井上参謀の見た地図には確かにあった。その地図は、日本陸軍の陸地調査部で作った「中部呂宋兵要地誌図」である。25万分の1相当の地図で、地名の大部分は日本語に書き換えてある。

 このような地図は、駐留中の部隊から人員を出して測量、調査に協力して作った。また、明治大正期から、日本軍人が商社員になり済ますし、或いは民間人が密偵となって兵要地誌を調べた。

1月5日。

 武藤参謀長は、山下大将と別行動をとってバギオに向かう途中、シソンの旭師団司令部に行った。師団の高津参謀が状況を報告すると、武藤参謀長は、声を激しくして言った。

 「旭兵団の陣地の左翼方面は後退しすぎている。マナオアグ、カバルアン丘の前進陣地の線を本陣地とすべきである。自分がバギオに到着次第、山下軍司令官に申し上げて正式に指示してもらうが、今から位置を変更して欲しい」武藤参謀長はきびしい表情で、司令部を去ってバギオに向かった。

 西山師団長も高津参謀も驚いた。武藤参謀長の要求は重大なものがあった。師団の左翼方面が後退しているという。左翼は、歩兵第71連隊の担当である。その位置は、71連隊の本部のあるアルビナロナンの東北方高地である。
 
 水際防御を避けて、山麓地帯の高地を利用して抵抗を続ける持久作戦は,第14方面軍の構想であり、西山氏団長はそれを実行に移そうとした。

 武藤参謀長は、師団の陣地計画に反対し、「ビンダイ、マナオアグ、カバルアン丘の前進陣地を本陣地とする」ことを要求した。

注:「前進陣地には、一定の目的を果たすまでの限度がある。主陣地は、敵の攻撃を破砕するまで戦わねばならない。」

 武藤参謀長は人一倍強気であったことが、旭兵団の高地抵抗陣地を水際防御型に変えた。こうして、兵要地誌図から急に浮かび上がったカバルアン丘は、まず、前進陣地となり、たちまち、栄光の主陣地となった。

 この時、大盛支隊は、すでにカバルアン丘に到着していた。支隊長・大盛大尉は前進陣地としての命令を受けていた。それが主陣地に変更になったことについて、直前の旭兵団はなんの伝達もしなかった。
 大盛支隊は、このようにして全員戦死の役割を与えられた。

 之より先に71連隊の大盛支隊をカバルアンに配置する変更があったのは、12月28日、西村参謀副長が旭兵団に対し、リンガエン湾西端のラプラドールに久保田支隊を派遣するように指示した。
 
 久保田支隊を西方に出すと、盟、旭両兵団の展開する東方の沿岸高地の陣地との間が、無防備の空白地帯となる。久保田支隊を孤立させないために、中間に前進基地を置く必要になったという。

 ともあれ、旭兵団と71連隊にとって、カバルアン丘の地名は、にわかに重大なものとして浮かび上がった。
地図には記されていないカバルアン丘に行くのは、大盛大尉の指揮する第2大隊と決まった。支隊としての編成も決まった。合計推定940名であった。

マニラ1月3日。

畠中少佐の指揮する第71連隊の第3大隊に「原隊に復帰せよ」の命令が伝えられた。

1月6日。
畠中少佐の指揮する第3大隊は、マニラを出発して国道3号線を北に向かった。
大隊の下士官、兵は武器、弾薬、食料などを携行したので、10kgを超える軍装の重みに肩をはらし足を痛めた。畠中隊員の全員、900名は歯を食いしばる強行軍を続けた。

1月8日。
工兵23連隊の第2中隊長、落合秀正中尉は、トラックに乗ってカバルアンの丘に向かった。落合中隊長は、前日水野連隊長から「カバルアン丘の前進陣地」と指示されている。
カバルアンの林の奥まった所に、支隊本部があった。大盛大尉は陸士54期で、落合中隊長の2期先輩ということから、初対面の固さがなかった。
 
 「工兵が1個中隊も来ようとは思ってもいなかったぞ」
大盛支隊長は、嬉しそうに笑った。
落合中隊長は「丘というのはどこですか」と尋ねた。
大盛支隊長は面白くないという顔で答えた。
「ここが丘だよ。他に高い所などありゃせんよ」

 大盛支隊長は、余裕のある態度で言った。
「戦車がどこからでも入って来られるようなところだ。しかし、敵は明日にも上陸するだろうから、とにかく粗末な陣地でもなんでも、3日間で作ってもらいたい」
 落合中隊長は、準備のため、すぐにボボナンに引き返した。

この記事は、高木俊朗著「ルソン戦記」から抜粋して書きました。
               
                                続く


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  「ルソン戦記」高木俊朗著。文芸春秋社。1985年。1800円。

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リタイアしてから、フイリピンで英語留学、ゴルフ、観光旅行などしながら長期、短期滞在をしてきました。
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