フイリピンの英語留学・ゴルフ・慰霊の旅

フイリピンで英語留学・ゴルフ・慰霊などでセブ・バギオ・ダバオなどに滞在した時の記録です
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カバルアン丘の大盛支隊の死闘

 歩兵第二大隊はリンガエンへマニラから二百数十キロの道を徒歩で夜を徹して歩き、ビナロナンで飯盒の蓋に注がれた一切れの餅で正月を祝い、第二大隊を基幹とする「大盛支隊」の約940名がカバルアンに到着、布陣したのが昭和20年1月3日であった。

 米軍は1月9日朝上陸を開始して早くも1月12日頃には戦車を先頭に攻撃して来ました。大盛支隊は、敵を近距離に引きつけては猛射を浴びせて撃退すると共に、一方では陣地の増強に努めつつあったが16日頃よりの敵の猛烈な射撃と戦車を伴った攻撃はカバルアン丘を砲煙瀑砂で被った。

 26日も敵の激しい攻撃をなんとか撃退したが、27日になってついに最悪の状態になった。敵の戦車は我が陣地内に侵入し、一つ一つの散兵壕を75ミリの搭載砲でドスッドスッと虱潰しに撃ちこんで回るし、生き残りのおりそうな所は片っ端から火炎放射器で焼き潰している。

 各隊との連絡は全く取れず、支隊長も自分の周り以外の状況はさっぱり判らない。もうこれ以上はどうしようもないと諦め、入っている壕もろとも潰されて生き埋めになるよりは、壕の外に出て
せめて敵の一人でもやっつけて死のうと思い、拳銃を手に壕のすぐ外の地面に腹ばいになっていた。

 しばらくすると一台の戦車が目の前にのそっと姿をあらわしたがそのまま方向を変えて見えなくなった。相変わらず戦車のキャタピラの音、戦車砲や手榴弾の炸裂音、機関銃のけたたましい発射音、あるいは米兵のかん高い叫び声が続いているが、戦線がどうなっているのか見当もつかない。このような乱戦が夕方まで続くと、敵はいつもの通り戦闘を止めて引き揚げ陣地は砲撃の音のみになった。

 暗くなってから生き埋めになった兵を掘り起こしたり、各隊との連絡を取ったりして生き残りの人員を確かめたところ、まだ百数十名いた。しかし、火器は殆どなくなり、陣地は徹底的に潰されて、とうてい組織的反抗はのぞむべくもないと判断した支隊長は、ついに陣地の保持を諦めてカバルアン丘を脱出し、その周辺でゲリラ戦を行うことに決し、各隊の生き残りの指揮官を集めてその旨下命し、わずかばかり残っていた食料品等を分かち与えた。

 大盛支隊の生き残りは、カバルアン丘の陣地を捨てて脱出した。数日の後、或いは数カ月後になって、脱出者が第71連隊に帰りついた。その数は、わずかに16名であった。

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歩兵第71連隊史

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        歩兵第71連隊史
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        歩兵第71連隊史

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ご訪問ありがとうございました。

とても興味ある記事で読ませて頂きました。

これからも宜しくお願い致します。
[ 2012/01/18 21:18 ] [ 編集 ]
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Author:mandaragan
リタイアしてから、フイリピンで英語留学、ゴルフ、観光旅行などしながら長期、短期滞在をしてきました。
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